また、自語りで申し訳ないが。
…結局2004年夏、モラトリアム期間を大して 球速トレーニングには活かし切れぬまま、僕は前回とは別の飲食店にまずはアルバイトとして入り、当面の生活費(3分の2は弥生に徴収される)を稼いでいくことにした。
だが、無論当初はそこに就職する気など無く、前回よりは時間的精神的余裕もあってトレーニングを継続していた。
…結局2004年夏、モラトリアム期間を大して 球速トレーニングには活かし切れぬまま、僕は前回とは別の飲食店にまずはアルバイトとして入り、当面の生活費(3分の2は弥生に徴収される)を稼いでいくことにした。
だが、無論当初はそこに就職する気など無く、前回よりは時間的精神的余裕もあってトレーニングを継続していた。
そんな中、一つの大きなチャンスが到来した。
ご縁あって、某IT企業の子会社さんから、「もし君がそれなりの球速面での結果を出せば、それをネット映画にしよう」と言うお話を頂いたのである。
2005年初頭。
まだ個人での動画投稿サイトが普及していない時代。
なんの長期的戦略もなく、あてどなくトレーニングを続けて来た僕にとっては僥倖に近いお話であった。
時はそこの親会社のカリスマ社長氏が、時代の寵児となっていた頃。
なにか時代の波に乗った気分で半ば舞いあがった記憶もある。
だが、話し合いの中提示されたハードルも高かった。
球速130キロオーバーのクリア
出ても100キロ強の身ではかなりのハードモード。しかも一年で。
その達成無くして、 映像化も(かなり当て込んでいた)スポンサー的支援もなし。
まぁ当然と言えば当然なのだが…。
いままで通り弥生に貢ぎ、いままで通りそれを見越してフルタイムで働きながら、数十キロ単位でのスピードアップの為ハードトレーニングをしなければならない。
ここで、「自分は新しい挑戦に賭けたいので、いい加減もうあなたにはお金を出せない。それが嫌と言うならもう会わない。連絡もしないで」
と言う当たり前の事をガツンと弥生に言えれば、現状万全の体制で挑戦に臨めたのだが…。
あきれたことに、まだこの時の僕は、そう毅然とした態度を取れるだけの、確固とした大人のメンタリティを築けずにいた。
あるいはそれだけ絡みついた弥生の精神的鎖が強固だったか。
今となっては自分自身でも理解不能だが…。
とにかくやるしかない。この人生最大のチャンスは逃せない…。
なんとか近所のトレーニングジム代は捻出し、プラスグラウンドの走り込み、遠投を週2回の休みに全力で行う。
途中、無理が祟り肘を痛めたりもしたが、一方で思い出したように110キロオーバーの記録を出したりもした。
だが、正社員に近い時間数働きながらでは疲労も確実に溜まる…。
そんな中、挑戦と同時並行で、この飲食店の本部スタッフ(あまり大規模なとこではないので、営業部長や副社長クラスが定期巡回していた)から熱心に正社員に誘われるようになっていた。
僕の事であるから流されそうにはなりつつも、今は挑戦している事があるので、と断っているつもりだったが、なんか「そのなんとか言う挑戦が駄目ならそちらに就職します」的なニュアンスに解釈されてしまっているようであった。
まあ僕の中に、「経済的には柱になっている職場だから、あまり無下には却下出来ない」と言う甘さがあったのだろうが。
とにかく肘を癒しつつ僕は不完全ながら鍛錬にのめり込む。
そんな僕を見て、弥生はなんらかの危惧を抱いたのか?とにかく金銭の月々の取り立てがきつくなって来た。
ある時、バイトへの遅番出勤が迫る中、とにかく額が足りないから出せと、いつにもまして妥協なく、「日雇いをしてでも払って」
「払う目処立たなきゃ帰さないから。」と駅ビルの非常階段で詰められまくった。
当然これまで同様、なんの正当性もない、不当な要求なのであるから、ブチ切れて怒鳴りまくってそのまま帰っても何のバチも当たらないんだが…結局、しどろもどろな対応しか出来なかった僕は、遂に(以前からせっつかれていた)超えてはならない一線…サラ金に手を出してしまう。
しかもその後繰り返し。
「少なくともその段階でなんでこちらに相談できなかった!」
とごく最近になって、家族や親しき人には言われた。
全く仰る通りなのだが、お金を貢ぎ続ける事同様、「私達の歪な関係性を誰にも知られてはならない。」という、洗脳とも少し違う、呪いのような僕の頭の中のロックは、つい数年前まで残っていた。
弥生が、他の人間も同様に支配していた形跡はないから、なんか僕との間にだけ支配関係と言う形で残った、当人達にも不可解な化学反応とも言おうか…。
「とにかく人とぶつかってでも、通すべき筋は通す。」と言う大人としての最低限の通過儀礼的なものを経ていなかった、僕がハマるべくしてハマった沼とも言うべきか。
いまもそれが主因の借金は200万残っている。
さて、話の本筋に戻る。
どうにかハードな2005年夏を過ぎ、9月に入ってそれなりに肉体の充実感を感じるようになった。
当然、ここで球速測定しようとなる。
貸与されたカメラとスピードガンを担当するパートナーを、予備日含め確保した。
これで万全の状態で球速測定を…
ところが!
何と予備日ごと、測定日が雨で流れてしまったのだ!
そして、リスケジュールしようとした矢先。
これまでの無理が祟り、僕は全身疲労等の体調不良に襲われたのである。
くそっ、僕はどこまで…。
もう、自分の不運を嘆いたところでどうしようもないところであった。
運命の奔流に呑まれつつあった。
2ヶ月ほど紆余曲折があったが、結局、件の企業さんとは縁を切る形となってしまう。
暗礁に乗り上げた僕に、年末まで繰り返し決断を迫ってきたバイト先の企業の入社話を断る術はなかった。(とはいえ今考えると、それでも強引に断り、再び一人で戦い続けてればとも思うが。)
結局2006年3月から、僕は再び飲食店正社員となる。
だが…。
ここで、僕は、それまでバイト故あいまいにごまかしが効いていた、「仕事における根本的なスキルとセンスの無さ。」をいやと言う程露呈してしまうことになる。
特に会社の中でも、ここの地元の店舗は客足が多く忙しい。
社員は店舗のセンター的ポジションで、食材の捌きと、周囲への逐次指示出しを並行して行い、店全体を見渡し回して行かなければならないのだが…
手先も不器用、マルチタスクが苦手、作業の優先順位が絞れない。そんな僕はしばしばパニクり、ベテランアルバイト達を苛立たせ、そして叩き上げの若手店長さんから毎日当然怒られることになる。
さらに定期的に巡回してくる。近隣数店舗を管理するスーパーバイザーの方からも…
僕が正社員の話の回答を引き伸ばしていたのを、変に勿体つけていたように見ていたらしい…。
で、最初からよい印象はなかったようで、色々と詰められる事になる。
むろん僕自身の力不足による自己責任とは言え、日々消耗を重ねることに変わりはない。
かろうじて、寝る前のスポーツニュースで躍動する、ブレイク間もない藤川球児投手の姿がエネルギーになっていたか。
弥生の件とも重なり、僕の体重は半年弱で58キロから50キロ位まで落ちてしまった。
ご縁あって、某IT企業の子会社さんから、「もし君がそれなりの球速面での結果を出せば、それをネット映画にしよう」と言うお話を頂いたのである。
2005年初頭。
まだ個人での動画投稿サイトが普及していない時代。
なんの長期的戦略もなく、あてどなくトレーニングを続けて来た僕にとっては僥倖に近いお話であった。
時はそこの親会社のカリスマ社長氏が、時代の寵児となっていた頃。
なにか時代の波に乗った気分で半ば舞いあがった記憶もある。
だが、話し合いの中提示されたハードルも高かった。
球速130キロオーバーのクリア
出ても100キロ強の身ではかなりのハードモード。しかも一年で。
その達成無くして、 映像化も(かなり当て込んでいた)スポンサー的支援もなし。
まぁ当然と言えば当然なのだが…。
いままで通り弥生に貢ぎ、いままで通りそれを見越してフルタイムで働きながら、数十キロ単位でのスピードアップの為ハードトレーニングをしなければならない。
ここで、「自分は新しい挑戦に賭けたいので、いい加減もうあなたにはお金を出せない。それが嫌と言うならもう会わない。連絡もしないで」
と言う当たり前の事をガツンと弥生に言えれば、現状万全の体制で挑戦に臨めたのだが…。
あきれたことに、まだこの時の僕は、そう毅然とした態度を取れるだけの、確固とした大人のメンタリティを築けずにいた。
あるいはそれだけ絡みついた弥生の精神的鎖が強固だったか。
今となっては自分自身でも理解不能だが…。
とにかくやるしかない。この人生最大のチャンスは逃せない…。
なんとか近所のトレーニングジム代は捻出し、プラスグラウンドの走り込み、遠投を週2回の休みに全力で行う。
途中、無理が祟り肘を痛めたりもしたが、一方で思い出したように110キロオーバーの記録を出したりもした。
だが、正社員に近い時間数働きながらでは疲労も確実に溜まる…。
そんな中、挑戦と同時並行で、この飲食店の本部スタッフ(あまり大規模なとこではないので、営業部長や副社長クラスが定期巡回していた)から熱心に正社員に誘われるようになっていた。
僕の事であるから流されそうにはなりつつも、今は挑戦している事があるので、と断っているつもりだったが、なんか「そのなんとか言う挑戦が駄目ならそちらに就職します」的なニュアンスに解釈されてしまっているようであった。
まあ僕の中に、「経済的には柱になっている職場だから、あまり無下には却下出来ない」と言う甘さがあったのだろうが。
とにかく肘を癒しつつ僕は不完全ながら鍛錬にのめり込む。
そんな僕を見て、弥生はなんらかの危惧を抱いたのか?とにかく金銭の月々の取り立てがきつくなって来た。
ある時、バイトへの遅番出勤が迫る中、とにかく額が足りないから出せと、いつにもまして妥協なく、「日雇いをしてでも払って」
「払う目処立たなきゃ帰さないから。」と駅ビルの非常階段で詰められまくった。
当然これまで同様、なんの正当性もない、不当な要求なのであるから、ブチ切れて怒鳴りまくってそのまま帰っても何のバチも当たらないんだが…結局、しどろもどろな対応しか出来なかった僕は、遂に(以前からせっつかれていた)超えてはならない一線…サラ金に手を出してしまう。
しかもその後繰り返し。
「少なくともその段階でなんでこちらに相談できなかった!」
とごく最近になって、家族や親しき人には言われた。
全く仰る通りなのだが、お金を貢ぎ続ける事同様、「私達の歪な関係性を誰にも知られてはならない。」という、洗脳とも少し違う、呪いのような僕の頭の中のロックは、つい数年前まで残っていた。
弥生が、他の人間も同様に支配していた形跡はないから、なんか僕との間にだけ支配関係と言う形で残った、当人達にも不可解な化学反応とも言おうか…。
「とにかく人とぶつかってでも、通すべき筋は通す。」と言う大人としての最低限の通過儀礼的なものを経ていなかった、僕がハマるべくしてハマった沼とも言うべきか。
いまもそれが主因の借金は200万残っている。
さて、話の本筋に戻る。
どうにかハードな2005年夏を過ぎ、9月に入ってそれなりに肉体の充実感を感じるようになった。
当然、ここで球速測定しようとなる。
貸与されたカメラとスピードガンを担当するパートナーを、予備日含め確保した。
これで万全の状態で球速測定を…
ところが!
何と予備日ごと、測定日が雨で流れてしまったのだ!
そして、リスケジュールしようとした矢先。
これまでの無理が祟り、僕は全身疲労等の体調不良に襲われたのである。
くそっ、僕はどこまで…。
もう、自分の不運を嘆いたところでどうしようもないところであった。
運命の奔流に呑まれつつあった。
2ヶ月ほど紆余曲折があったが、結局、件の企業さんとは縁を切る形となってしまう。
暗礁に乗り上げた僕に、年末まで繰り返し決断を迫ってきたバイト先の企業の入社話を断る術はなかった。(とはいえ今考えると、それでも強引に断り、再び一人で戦い続けてればとも思うが。)
結局2006年3月から、僕は再び飲食店正社員となる。
だが…。
ここで、僕は、それまでバイト故あいまいにごまかしが効いていた、「仕事における根本的なスキルとセンスの無さ。」をいやと言う程露呈してしまうことになる。
特に会社の中でも、ここの地元の店舗は客足が多く忙しい。
社員は店舗のセンター的ポジションで、食材の捌きと、周囲への逐次指示出しを並行して行い、店全体を見渡し回して行かなければならないのだが…
手先も不器用、マルチタスクが苦手、作業の優先順位が絞れない。そんな僕はしばしばパニクり、ベテランアルバイト達を苛立たせ、そして叩き上げの若手店長さんから毎日当然怒られることになる。
さらに定期的に巡回してくる。近隣数店舗を管理するスーパーバイザーの方からも…
僕が正社員の話の回答を引き伸ばしていたのを、変に勿体つけていたように見ていたらしい…。
で、最初からよい印象はなかったようで、色々と詰められる事になる。
むろん僕自身の力不足による自己責任とは言え、日々消耗を重ねることに変わりはない。
かろうじて、寝る前のスポーツニュースで躍動する、ブレイク間もない藤川球児投手の姿がエネルギーになっていたか。
弥生の件とも重なり、僕の体重は半年弱で58キロから50キロ位まで落ちてしまった。
コメント
私なら、何としてでも探し出して今まで貢がされた金に見合った罰を与えたいと思ってしまいますが…
そういったお考えはないのですか?
ありがとうございます。
もちろん一旦弁護士に相談しましたが、借用書等ないと、贈与扱いにどうしてもなってしまうとのことでした。
どうもそもそも本人が、なんらかの借金を背負ってるらしく、大学院まででてロクに寝ずに働いていて、下手すると現在もそうなのではと。
後の文章にも書くかもしれませんが、Facebook等に形だけアカウントすらない、僕に一切追い討ち連絡もないとこ見ると、ロクなデジタルデバイスも持って無いのではと。
まあ、どの道僕は知ったことではないので、前に進むだけですが。
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