大学時代:晴れて地元の私立大学に入学した俺。だが硬式野球部はそれなりにレベルが高く、推薦でしか選手を採らない。まあ自分にとっては「自分のやりたいジャンルを自分のペースでやる。」ということが重要だったから、いきなり容赦なく淘汰にあうような体育会系野球部に、この時点で無理に入りたいとは思わなかった。
 結局、軟式野球同好会サークルへ入ることにした。
 ここなら心置きなくピッチャーとしてのトレーニングが・・・・

 

できなかった。
 メンバーのすべてが硬式経験者、そうでなくとも最低限運動部経験あり。
 みな70~85メートル先のバックネットに軽々届かせるくらいの肩をもっている。
 要するに「俺ピッチャーやります。」などととても言い出せる雰囲気ではなかったのだ。
結局セカンドの控えにまわされ、慣れないカットプレーなどにオタオタしたり、たまの代打出場で半分硬直したまま三振したり・・・。ここでは2週間後の試合でもともと持ってる実力を発揮するための練習はしても、自分の身体能力の限界値を高めるためのストレングストレーニングはなされない。
 俺なにやってんだろうという思いばかりが日々募っていった。1年、2年と貴重な時間が過ぎていく。

 これでは駄目だ。俺はどうしたいんだ?自分の意思を通すには、力が必要だ。この体を作り変えてかなきゃどうにもならない。
 大学のジムでウエイトトレーニングに着手。走りこみの量も増やした。
 さまざまなトレーニング理論を独学で吸収した。
 同学年のみながキャンパスライフを満喫している中、ひたすら汗を流した。
 3年生のとき、親の会社が倒産。経済事情的にアルバイトをフリーター並みにしなければならなくなってからは、
サークルにも顔を出さなくなった。あまった金と時間は当然自分のトレに使った。
 あまり強くは意志表示をしない、とにかく飲み会で汚れを引き受けてでも周囲との融和を重んじるタイプだった(当時はね)俺が面倒な部長職を引き受けてくれると思ってたらしいサークルメンバー達は、いきなり我が道を突き進みだした俺に当惑していたようだ。
 だがこれこそが、本来の俺なのだ。
 奇跡の大進化を遂げて、堂々とサークルに戻り、実戦のマウンドに立ってみせる・・・。
 98年夏の甲子園を席捲した3つ年下の怪物投手の雄姿にも、大いに触発された。
 3年生の夏を過ぎると、みな「就職」という関門突破に労力を注ぐようになる。
 敬語の用法に急に気を遣いだし、テレビ欄以外見なかった新聞を時事問題を知るためと称してまじめに読むようになる。自己分析だの企業訪問だのエントリーシートだのといったキーワードが飛び交い、ファッション誌から出てきたような髪形と服装が黒い髪とスーツと微妙な丈のスカートに取って代わられる。

結局、みんな自由を謳歌しているようでいて、最終的には既存の枠の中に戻ってくる。馬鹿にしていたはずの
大人たちのシステムにきっちり順応し、継承していってしまうんだな・・・。

そんなことを思いながら、ガイダンスにもセミナーにもろくに参加せず、俺は走っていた。

98年末、時速100キロの壁を突破。105キロ付近まで到達。
このときの歓喜といったらなかった。学生生活の中でも最高の一瞬であろう。

よし年明け二月までに、110キロ越えだ!!
そうすりゃ軟式投手としての体裁も、かなり整う。

ウエイトトレや走り込みを、質量ともに俺は倍近くに増やした。