取り敢えず現状の前提条件が分かりやすいよう、僕の個人史をざっくり載せますね

小学校四年生くらいまでは、喘息の持病があったこともあり、あまりスポーツというものに積極的になれなかった。というより、二年生ぐらいまで自転車にも乗れなかった。
大体高校生くらいまでは、男子の価値基準とかマウンティングは運動神経の良し悪しで決まってしまうものだ。当然そんな中僕はコンプレックスの塊となり、どんどん運動から遠ざかっていく…と思いきや、ちょっとした転機が訪れた。
四年生の時、学校のレクリエーションで出会ったフットベースボール(当時はサッカー野球と呼んでいた)である。「ゲームとしての野球」の面白さに目覚めたきっかけである。
そして五年生の時にテレビで見た「トルネード投法の男」の豪快なピッチング。
フォアボールを出しても、それ以上に三振を奪ってねじ伏せる投球に、僕は目を奪われた。
「速球投手」というカテゴリーへの憧れを強くした瞬間であった。
そして中学校入学…当然野球部入部…といきたかったのだが、自分の体力、運動神経が、同学年の平均値よりかなり劣ってしまっていることに気づいてしまっていた。無理に入って頑張りまくっても、三年間球拾いで報われずに終わることは明白。まだ喘息が悪化する不安はあったし、体育会系的なノリへの根本的な拒絶反応もあった。
それなら個人で好きにやろう。帰宅部トレーニーとして…。
普通とは違う、僕だけの方法論で、腕力、その他の能力に秀でた連中を出し抜く!
これは今でも僕の基本理念となっている。
なんとしても、力をつけたい…運動部のヤツらが考え付かないような方法で…。
片足スクワットや片腕立て伏せ…。バスタオルを使ってのシャドウピッチング…。当時はまともなトレーニングの知識などなかったから、素人考えででたらめな事ばかりやっていた。腕を太くすれば速い球を投げられる、と思っていたから…。
しかし現実の進化は亀の歩み…。公園でバックネット相手に投げていたら、飛び入りで参加してきたサッカー部員の方が遥かに速い球を投げられる…これは惨めなもんである。
そうこうしているうちに高校受験の時期がやってきて…僕は見事に失敗し、滑り止めの私立高校に通うこととなる。
高校一年の時にJリーグが開幕。「野球はオッサンの娯楽」的な風潮が急激に広まりだしたのがこの頃である。僕もクラスの話題についていくべく必死こいて、サッカー雑誌を立ち読みしていた。
振り子打法を駆使する細身の青年が突如として球界の表舞台に現れた時も、正直それほどの感慨は湧かなかった。
野球に対する情熱は萎えかけていた。
でもなぜか、我流トレーニングだけは続けていた。将来に対する漠然とした不安を抱きながら…。
このままいけば、まあどこか大学には入れるだろう。何とか就職したとして、で、その後どうする?
文武どちらにも、自分に特別な才能などないことは判っている。それどころか精神と頭脳と肉体の容量が絶対的に足りない自分が社会に出ても、荒波に呑まれ流されるだけの人生しか待っていない。
人知れず思い悩んでいた所へ、アメリカに渡った「トルネードの男」が旋風を巻き起こしたのである。

球界もマスコミもファンも、皆が当初は懐疑的な中で…。
「そんな怪物揃いの大リーグで通用するわけない」
と僕も思っていた。
それが、日米野球の文化の壁に、風穴を穿つ大活躍…歴史の転換点をリアルタイムで見る思いだった。誰もが崩れないと思っていた常識を、過去の栄光をなげうってまで、ぶち壊して見せた男がいる…。
忘れかけていた想いが、ふつふつと…。馬鹿な、今更ピッチャーのトレーニングなんかやって何になる。まさか今からプロに入れると妄想してるんじゃないだろうな…。
自分の中の「常識人の声」を無視し、受験勉強の合間を縫って、僕はトレーニングに励んだ。
時折ゲームセンターのマシンで球速測定したりしていたが、当初の球速はたった七八キロ。それを受験勉強がひと段落する頃には八五キロくらいまでアップさせていた。
なんとも失笑ものな、低次元の進化だが、当時はそれでも嬉しかった。